てくてく40の読書レビュー(2003年度)
こちらのページでは2003.8月〜2004.3月までに読んだ本をご紹介しています。2004.03.21:何故サンフランシスコはめまいの街なのか、それはLSD・マリファナでありスピードの街だからだ。またサンフランシスコはラブ&ピースでありフラワー・ジェネレーションだからだ。ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、グレートフル・デッドを生みだし、ビート、ヒッピー、サイケ、そしてヒップでポップでメロウなムーブメントの爆心地であるからである。
これらのムーブメント、全てふらふらと揺れ動き、ぐるぐると回転し、疾走・トリップの爆心地であるが故である。では何故爆心地足りえたのか。何故ニューヨークでもシカゴでもない。 カリフォルニアの中でも当地サンフランシスコなのか。
本書は、1958年に公開されたヒッチコックの「めまい」の進行に合わせ、その舞台となったサンフランシスコ巡りをするところから始る。
こんな風に映画が読み解ければなんと楽しいことだろうか。映画「めまい」が巡るのはサンフランシスコの歴史を遡る建造物・景勝地の観光ルートである。それはサンフランシスコの歴史を辿る道となる。
ここで本書は映画「めまい」をはなれサンフランシスコの歴史へと転じていく。この歴史の積み重ねが1950年代初頭からのビートを始め、フラワージェネレーション・ヒッピーから、ティモシー・リアリーを教祖とする LSDの「トリップ」での精神世界探訪等様々なムーブメントを生み出す原動力となった事実を掘り起こしていく。それにしても先週読んだ「続・科学の終焉」でトリップで悟を得る話の次にこの本でLSDの由来に ぶち当たるとは、世の中狭いな。
そしてそれは、1967年6月のモンタレー・ポップで一つの頂点を迎える。日本では1967年というとフォーク・クルセイダースの「帰ってきたヨッパライ」 や森山良子の「この広い野原いっぱい」がヒットしたり、ジョーン・バエズが来日したりしているようだ。 またヒッピーというと「ゲバゲバ90分」だったと思うけどハナ肇がヒッピーの格好でギャグやってたなー。
その後このムーブメントはアートの領域でも革命を起こし、ヘイト・アシュベリー 地区を中心として音楽・詩や小説はもとよりサイケなポスター・アートやライト・ショー、モダンダンス等の分野へ裾野を広げていく。 これらは元来当地サンフランシスコの持っている「めまい」を 起こす性格によるものだという訳だ。
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なるほど計算された、見事な展開である。60年代の出来事と云えばケネディ暗殺、ベトナム戦争本格化(1963)、東京オリ ンピック(1964)、YS−11就航(1965)仙台・東京間で乗ったのは幾つの時だったんだろう。母もファンだったビートルズ来日(1966)、ボーリング・ブーム (1967)、三億円事件(1968)アポロ11号の月面着陸(1969)大阪万博(19 70)岡本太郎。1963年生まれの僕にとって、これらの出来事は大人の世界。この本は子供の頃の様々な記憶を呼び覚ます。過去と現在を行ったり来たりするめまいを呼ぶ本なのだ。
これを書いている今朝の新聞にはビートルズ日本公演 の前座バンドのリーダーであり僕たちの世代では「全員集合!!」であり、僕の息子には「わくさん」だったいかりや長介さんの訃報。合掌。
僕は今、あの頃の父や母と同年代になり、自分の子供はあの頃の僕と同じ年代だ。 そう、歴史はまるで転がる石のようにぐるぐると繰り返しつつ漸進的に進むものなのだ。
ラルフ・"サニー"・バージャー「ヘルズ・エンジェル−サニー・バージャーとヘルズ・エンジェル・モーターサイクル・クラブの時代 」の読書日記はこちらからどうぞ
もう一つの60年代リチャード・ブローティガン「アメリカの鱒釣り」、「ビッグ・サーの南軍将軍」の読書日記はこちらから
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2004.03.13:書棚で目にしていたにも関わらず長い間てっきり既に読んだ前作の「科学の終焉(おわり) 」だとばかり思い込んでおり、続編である事に気づいてなかった。
まずは前作から、量子物理学や宇宙論は実証実験可能な領域での発見をし尽くし、ここ数十年は優雅で美しい理論的洞察を発明しているに過ぎない。これはもうSFとなんら変わるところがなく、要は「科学は既に終焉っている」のではないか。これが全体を通じる著者のスタンスであった。
科学ジャーナリストであり続ける以上、科学者へ媚を売りおだてて情報を集める事は欠く事が出来ないという従来の規定概念を覆す辛辣な質問を飛ばすインタビューの数々。
著者の前でロジャー・ペンローズ、リチャード・ドーキンス、スティーブン・ホーキング、フランシス・クリック等一般人が半ば神聖視しているような現代科学者の最高峰の人たちが、自らの著書などでは決して表さない人間臭さや苦悩を吐露していく。
こんな事書いちゃって再び相手に会って貰えるのか。真正面からライバルの理論や矛盾点を突きつけられておたおたしたり、怒り出したり、笑い飛ばしたり彼らの姿はまるでこの本の監修者となっている筒井康隆の小説に登場する偏執狂気味の人物のようだ。
そして読み進むうちに現代物理学の百� ��争鳴ぶりと、究極の真実までの道程の遠さを我々は気付かされる。
今回続編として登場した本書は、前作が量子化学や宇宙論等が実は終わっているとした一方で神経科学の分野は実はまだ始ってもいないというものだ。
冒頭前作を読んだ英国生物学会の重鎮ルイス・ウォルパートに神経科学はまだ始ったばかりだと云うのに「もう終ったとは、貴様何をほざくか」と激昂されるシーンから始る。
著者はその主張を素直に認めた上で、脳は自分自身を説明することが出来ないのではないかつまるところ心は解明できるのかという問題へ迫っていく。
現代科学は様々な切り口で心と意識の問題へアプローチを行っている。それは純粋科学の研究であったり、脳神経医学のように医学の分野や薬物学、製薬会社が企業競争の� ��でしのぎを削る分野もある。しかしその成果は果たして「始った」とも言えないような分野も数多いようだ。
フロイトから始った精神分析はその原因として呼び覚まされた幼児期の虐待の記憶が治療師によって作られたものだとの訴訟や謗りを受け窮地に立たされている。
脳神経医学はロボトミー手術の台頭とその効果が疑わしい事から世間から異常・不気味なものとして定着してしまった。神経の化学物質の働きに対する知識は玉葱の皮のように剥いても剥いても心や精神の実態を表さない。
心理療法は、「信じるものは救われる」的で祈祷師並という批判を跳ね返す証拠を明示できない。精神薬理学はプラシーボ効果との競争に白黒付ける程の効き目を示せずにいる。
遺伝工学は正体が怪しげな遺伝子の発見や優生学等によって、似非科学や人種差別主義者たちによって踏み荒らされてしまっている。
進化心理学、進化心理 学とは現代人の心の構造や精神活動を自然淘汰によるものとして説明しようとするものだ。慈善団体へ巨額な寄付や、子殺しや連続殺人、異性の好みやゲイ等、現代人の精神活動の個人の善行や悪行の精神活動を進化心理学によってに説明しようとすると、なんか屁理屈っぽく、信憑性がうすくなってしまう。またこの理論は何々の形質を持つものは子孫を多く残せる的に理論を展開する訳だが、突き詰めると心や精神の構造の成立に遺伝子が関与するのかどうかという優生学的思考との迎合が避けて通れず、苦しい展開となっている。
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